普段、私たちが何気なく使っている日本語。たとえば「おめでとう」や「ありがとう」という言葉が、いつ頃から使われていて、どうしてそう言われるようになったのか、考えてみたことはあるだろうか?
日本語には、古くは中国大陸から入ってきた漢語を中心とした「外来語」と、はるか縄文・弥生時代にまで歴史をさかのぼる日本固有の「やまとことば」の2種類がある。
「やまとことば」は、主に話し言葉として使われつづけ、後付けで入ってきた漢字から離れて「音」そのものが意味をもつことが多い。そこがひとつの特徴でもある。
数千年という長い時を超えて、今もなお使われ続けている「やまとことば」の世界を、ほんの少しだけ紹介しよう。
誰もがよく知っている、あの言葉の本来の意味とは?
●春夏秋冬(はる・なつ・あき・ふゆ)
●おめでとう
●ありがとう
●たのしい
●家(いえ)
●人体と植物の呼び名が一致
●手当て
春は芽が「はる」、秋は食べ「あき」る
四季のある国、日本。それぞれの季節を示す日本語は「春・夏・秋・冬」、それぞれの語源・由来は諸説あるが、こんな考え方はどうだろう。
万物が芽吹く季節、「春」の語源とは、芽が「はる(張る)」。植物をはじめとして生命力があふれ出す季節を表現している。
「夏」の語源は、はっきりしないが「あつ(暑い)」が変化したもの、という説がある。
そして収穫の「秋」は、一年でいちばん「あき(飽き)」るほどに食べ物があることを意味しているのだという。
「冬」は、春から始まる作物づくりのために力を蓄える季節。古代の日本人は、ものを振ることによって霊力が増えると考えたため、「ふる(振る→増える)」が語源という説がある。
いまも使われる日本の四季を示す言葉。そこには、季節の訪れを喜んだり身構えたりしていた、遠いご先祖様たちの暮らしや感情が息づいている。
「おめでとう」は「めでた=芽出た」から
「おめでとう」とは、「めでた」、すなわち「芽が出た」状態を表すという説がある。芽が出るのは、それだけ成長したということ。
人生のステップを一つ登った、あるいは新年を迎えて一つ年を重ねた、などの状態を示す言葉が、転じてお祝いの言葉になったと考えられる。
たとえば就職も結婚も人生のひとつの節目だが、そこで贈られる「おめでとう」という言葉には、新しい家族や仕事という「芽が出たね」というお祝いの意味。加えて、出た芽をしっかり育ててほしいという願いも込めた、励ましの言葉でもある。責任重大だ。
「ありがとう」=「有り難い」こと
「ありがとう」を漢字で書くと「有り難う」。有ることが難しいものがそこに存在し、めったに起こらないような嬉しいことが起こるから「ああ、有り難い!」「有り難う!」となる。
現代では当たり前に感じられる「健康に生きていること」「食べ物があること」は、大昔の日本では文字どおり「有り難い」ことだった。
だからこそ、そんな奇跡のような計らいをしてくれているのは、きっと「神様」にちがいないと人々は考えた。
私たちが毎日なにげなく使う「ありがとう」という言葉は、本来は目に見えない神様の存在や、その計らいへの感謝だったと考えられる。
「たのしい」=食べものが「手の上にいっぱい」!
「たのしい」の「た」とは、「て(手)」の音が変化したもので、「手の上にたくさんものがのっている状態」を示しているという説がある。
古語である「たのし」を古語辞典で調べてみると、「満腹で満ち足りた気持ちである」と書かれている。
私たち現代人の多くが「楽しい」という言葉から連想するのは、レジャーや買い物などのお金を使って得られる喜びや、日常・非日常のもっと刺激が多い状態ではないかと思う。しかし、本来「たのしい」とは、たくさんの実りに恵まれて、お腹いっぱい食べられる状態のことだった。
古代の人たちの暮らしと、そこかから来る価値観は、もっとシンプルなものだったのだ。
「いえ(家)」は、ハウスじゃなくてホーム
国語辞典で「いえ(家)」を引いてみると、最初に「人が住む建物。家屋」と出てくる。しかし元々の意味を調べると、ちょっとニュアンスが違う。
「いえ」は、古語では「いへ」と書く。「い」という言葉は、それだけで「神聖なもの」という意味を持ち、「へ」は「辺(あたり)」の意味。つまり、いえとは「神聖な辺り」、生きていくパワーが集まる場所のことをいう。
ちなみに「建物」の方は、「や(屋)」。やど(宿)の「や」で、物理的に雨風をしのぎ体を休ませる場所、という意味だ。
いえは「や」である以上に、人が生きていく活力を養うために帰るべき場所。英語でいえば「Home」ということになる。
「からだ(体)」は幹で、手足は「えだ」
人間の身体(からだ)にある「め=目」「はな=鼻」「は=歯」「み=身」。これと同じ音で別の言葉が、私たちのよく知っている、身の回りにあることに気づいているだろうか。
それは植物。「め=芽」「はな=花」「は=葉」「み=実」、人体を示す言葉と似ている。たんなる偶然とも思えない。
からだの中心のことを「幹」ともいう。本体そのものを意味する言葉だが、幹といえば「木の幹」で、面白いことに古代人は手足のことを「えだ」と呼んでいた、という話もある。
もしかすると大昔の日本人は、人の体(からだ)を植物に見立てて、同じように名前を付けたかもしれない。それくらい植物は大事で身近なものだった。
手を当てるから「てあて」、心で痛みを和らげる
子どもの頃のことを思い出してみてほしい。どこか痛かったり具合が悪くなった時に、お母さんはやさしく手で触れて「痛いの痛いの飛んでいけ!」と言わなかったか。それこそが「てあて(手当て)」だ。
手のひらは、昔の言葉で「たなごころ=掌」ともいう。これは、「手の心」という意味。
ケガや病気をした時に処置をすることを「手当て」というが、昔は、痛みがあれば実際に手を当て、掌を通して痛みを和らげようとした。
掌から伝わる温もりには、心が感じる痛みを癒す力がある。体ではなく心に苦しみを抱える人の背中に、そっと手を当てる。それもまた「てあて」。
ちなみに、漢字の「看護」の「看」は、「手」と「目」を組み合わせた字を書く。つまり、手を当て掌で相手をみる、という意味だ。
「ことば=言の葉」には神聖な力が宿る
「ことば」の語源は、奈良時代以降に生まれた「ことのは(言の葉)」。それ以前にどう表現していたかというと、「こと」。ただそれだけ。
物事や事柄などに含まれる「事」、こちらも古くから「こと」。その昔、日本では「言葉」と「出来事」は、どちらも「こと」という同じ言葉で表されていた。
どうして同じなのかというと、日本に古くから伝わる「ことだま(言霊)信仰」というものがある。口に出した言葉、心に思った言葉は、本当の事として実現してしまう、そんな風に昔の日本人は考えたのだ。
うれしいこと、たのしいこと、嫌なこと、悲しいこと。言葉に宿る神聖な力が、実際の物事をも動かす。
ネガティブな言葉は、ネガティブな事態を招くかもしれない。そう考えたら、使うのを極力避けたくなるはずだ。
ことばの元々の意味や成り立ちを知らなくても、「やまとことば」は長い時を超え、いまも使われ続けている。
声に出して言ってみて、さらに本来その言葉が持つ意味を知る。そうすることで、なぜだか背筋が伸びるような、自分の中心にきゅっと力が入るような気持ちにならないか。
何か辛い状況に陥ったときも、大事な誰かの手のぬくもりを思い出せば、少し安心して、がんばれそうな気持ちにもなってくる。
「ありがとう」とお礼を言うときにも、それは本当に「有り難い」ことなのだと思えば、いつもよりも気持ちを込められそうな気がするのでは。
膨大な情報、すなわち言葉が溢れる時代だからこそ、私たちのご先祖様が贈ってくれた素朴でポジティブな「やまとことば」を大事にして、そこに宿る不思議な力に癒されてみたい。
*参考文献:『ひらがなでよめばわかる日本の言葉』(中西進著/新潮文庫)、『岩波 古語辞典』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編/岩波書店)、『古典基礎語事典』(大野晋編/角川学芸出版)『暮らしのしきたりと日本の神様』(双葉社)
原文/平井かおる(日本の神道文化研究会)
イラスト/今井未知 www.michiimai.com
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