神社やお寺にお参りする際、何をお願いするかは人それぞれ。しかし、気になるご利益として挙げられる不動の一位は、きっと「縁結び」じゃないだろうか。
たとえば、素敵な誰かにめぐりあいたい。あるいは、推しのライブのチケットをゲットしたい。そんなとき願う言葉は「どうか、ご縁がありますように」。人とのご縁、モノとのご縁、世の中は、たくさんの「縁」(えん)で成り立っている。
でも、ちょっと待って! ご縁って、そもそも何? そして「縁を結ぶ」とは、一体どういうこと? あらためて考えてみよう。
「縁」を「結ぶ」とは、どういうことか
「縁」(えん)という言葉が、もともと仏教の教えだということは、意外に知られていない。
物事にはすべて「因」(いん、はじまりのこと)があり、そこに「縁」が働き、何かの結果が生じる。これが「因縁」(いんねん)で、縁が起きることを「縁起」(えんぎ)という。
二度とないかもしれない、不思議でありがたい力。だから丁寧に、感謝の気持ちをこめて「ご縁」と昔の人は呼んだ。
縁といえば特に、人と人との出会いや、つながりを指すことが多い。たとえば、こういうことだ。
一人の男性と一人の女性が、たまたま出会ったことが「因」(はじまり)としても、そこに「縁」の力が働かなければ、ふたりが一緒に生きていく「結婚」や「新しい家族の誕生」という未来にはつながらないだろう。
このように「縁」を「結ぶ」ことから結果が生じ、それがまた新たなはじまりにつながっていく。
では、「結ぶ」とはどういうことだろうか。それは、もとは別々だったものが結びつくことだ。
ちなみに、「結」という日本語の語源はムス=「生す」だといわれている。「結び」が行われたところには、新しい力が生まれてくる。日本では古くからそう考えられてきた。今でも神社・神道では、この「結び」という言葉がとても大切にされている。
男女の仲に限らない。人と人、人とモノの間も同じこと。出会った大切な「縁」に気付いたなら、それをしっかりと深め育てていくことで、相手との間に目には見えない強い「結び」が生まれてくる。これを「縁結び」という。
ことわざから考える、「縁」のいろいろ
■ 縁は異なもの 味なもの
→意味:「夫婦の縁って不思議、だからオモシロイ」
男女の結びつきは「異なもの」=不思議な巡り合わせに左右されるもので、その縁は「味なもの」=おもしろ味がある、という意味。
恋人や夫婦などの縁で結ばれた者同士は、その近しい関係から、楽しいことばかりではなく、ややこしいことや困難にぶつかる場合だってある。
ときにはケンカしたりしながらも二人で乗り越え、二人の「縁」を育むことで、その関係は実に味のある、趣深いものになっていく。
■ 袖すり合うも多生の縁
→意味:「人・場所・もの、すべての縁はつながっている」
耳なじみのあることわざのはずだが、「多少」じゃないの?と思っていた人もいるかもしれない。正しくは、「多生」となる。
「多生の縁」は、前世から因縁があるという意味で、「袖すり合う」とは些細なことの例え。だから、「たまたまそこに居合わせたというだけの出会いにも、じつは前世からの因縁がある」という意味のことわざだ。
たとえ現世では偶然のように思えたとしても、その縁の発端は、実は自分の記憶にはない前世からつながっている。そんな風に、昔の人は考えた。
■ 縁なき衆生は度し難し
→意味:「良い縁に気づけないとは、なんて残念!」
「縁なき衆生(しゅうじょう)」とは、縁があったとしてもそれに気づかない人のこと。「度し難し」は、救いようがないという意味だ。
仏教に基づくことわざで、「仏様にどれだけ慈悲の心があっても、仏様の教えに接するつもりのない人は救う方法がない」との意味が込められている。
現代風に意訳するとしたら、「誰かが大切な助言をしてくれても、それを聞き入れないなら意味がない」というところだろうか。
縁は、人やモノに限らない。誰かが言った言葉、本で見かけた情報、目に入る風景や情景の中にもある。何かを気づかせてくれるもは、すべてが「縁」だと考えられないか。
親と家族、友達、学びや仕事で出会う人。いま電車の隣で座っているおじさんや、店のレジでお釣りを渡してくれたおねえさんだって、もしかしたら、前世からの縁でつながっているのかもしれない。
自分を取り巻くさまざまな「因」(はじまり)と、それに出会えた「縁」。偶然の積み重ねもあるが、自分から引き寄せる「縁」だってあるはず。そんな風に考えてみると、自分を取り巻く世界がちょっと楽しく、いつもと違う景色にも見えてきそうだ。
仏教とともに古来伝わってきた「縁」という概念を、日本人の感性が育てた「縁結び」。それは、私たちの生活や価値観のなかに今もどこかで息づいている。
原文/平井かおる(日本の神道文化研究会)
イラスト/今井未知 www.michiimai.com
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