はじめまして。 京都 嶋原 末廣屋の葵太夫と申します。たんとの方に、正しく知ってもらえたらええなぁと思うてます。どうぞよろしゅうおたのもうします。

まず最初に、「嶋原(しまばら)」とは? というところからお話させてもらいます。 日本最古の花街である「嶋原」は、遡ること600年程前の室町時代に「傾城町(けいじょうちょう)」という遊里(ゆうり)が許可され、ここに「傾城局(けいじょうきょく)」が置かれたのが核となっています。その後、応仁の乱などの戦火にまみえながら転々としている内に、豊臣秀吉が天下を統一。一応の落ち着きを見せたものの、都は荒れ、盗賊なども現れておりました。そんな都を建て直すのは並大抵ではあらしまへん。実はその手段として正式に花街が造られたんどす。 場所は二条柳馬場。柳のたおやかさを生かし、町が整備されます。そしてここが、日本初の「公許花街 柳町(こうきょかがい やなぎまち)」として誕生しました。遊びをここに集約し、男性も女性もここで浮き世を忘れて遊んでも、一歩外へ出るとしっかり仕事をする。 そのための癒しの場、次の日の活力になるような場所として造られた――今で言う、ディズニーランドのようなテーマパークの走りどすね。その後、徳川家康の時代になり、二条城の造営にからみ南の方へ移転。「六条三筋町(ろくじょうみすじまち)」となります。 ここは大層繁栄し、有名な吉野太夫や夕霧太夫もこの頃どす。

太夫とは、「正五位」の別称で、これは十万石の大名に相当し、帝の宴席にも呼ばれる身分どした。町衆文化から生まれた芸妓・舞妓のお客様は、町の旦那衆。それに対し、太夫は公家文化から生まれ、お客様は公家や大名。この「六条三筋町」には公家のお通いも多く、太夫も御所へ出入りをしておりました。そんなあるとき事件が起こります。御所へよく出入りをする女性の車。どこかのご摂家の奥方だと思っていた、時の所司代・板倉周防宗重が、花街の太夫と知り大いに憤慨。風紀上良くない!と「朱雀野(しゅしゃかの)」へ急な移転を命じます。この移転騒動の様子が長崎で起こった「島原の乱」に似ている……というので、ここは「嶋原」と呼ばれるようになります。寛永18年、1641年のことどす。

移転先の「朱雀野」の周りは田んぼや畑ばかり。人家も無く、「嶋原の 塀も染まるや 藍畑」という歌まで残っている京の都の外れどす。一時は繁栄した時代もありましたが、地の利には勝てず、祇園等の他の町におされてしもぉて、衰退していきます。そしてとうとう映画でも有名になってます「輪違屋」、一軒残すのみとなってしまいました……。うちもここに所属をしてました。 皆さんに支えられ、2014年に母である司太夫が葵太夫とともに独立をし「末廣屋」という置屋を始めました。 さて、次回は「太夫」について等、お話さしてもらおうかと思います。またぜひ見とくれやす。 おおきに!!

京都支部/京都嶋原 末廣屋 葵太夫


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