ライフワークとして日本全国の美しい城を訪ね歩きカメラに収めてきた、写真家の齋藤ジンさん。これまで5回を重ねてきたハッケン!ジャパンでの連載コラム、その初回を飾った城が「鶴ヶ城」であり、城のある福島県会津若松市は、齋藤さんが生まれ育った故郷だ。

「僕が生まれ育った滝沢地区は、戊辰戦争時の激戦区です。子どもの頃は、白虎藩士が埋葬されている飯盛山を田んぼ越しに眺めながら、ひとりで秘密基地を作って遊んでいました」

会津若松市は、日本が江戸から明治へ移り変わる中で、戊辰戦争、白虎隊、そして新選組など、数々の歴史ドラマの舞台となった地。

「滝沢峠付近には、名もなき会津藩士の集合墓地が点在しています。大禍時(おおまがとき)、昼から夜に移り変わる黄昏どきは災いが起こりがちだといいますが、言い知れぬ心のざわつきや何かに迫られるような背中への気配など、この土地が持つ因習めいたものを幼い頃から感じていました」(齋藤ジンさん)

上京してプロカメラマンの道へ

そんな会津の土地がもつ独特の空気から逃れるように18歳で上京した齋藤さんは、25歳でプロカメラマンとなる。その後は売れっ子の雑誌カメラマンとして年に数万ものシャッターを切り、仕事に忙殺される日々。いつしか故郷は薄れていき 、会津へ向かう足も遠のいていった。

「東京で結婚して、30代後半に差し掛かって子どもを授かり、順風満帆と思えるような日々でした。しかし、そんなときに、あの震災が起きたんです」

2011年3月11日午後2時46分、宮城県牡鹿半島の東南東130km付近、深さ約24kmを震源とする、マグニチュード9の巨大地震が発生。その翌日、福島第一原発で水素爆発が起きた。

「世界中が『フクシマ』に目を注ぎ、誰もが生と死を深く考えているとき、 死に目に会えなかった明治生まれの祖父のことが僕の頭をよぎりました。祖父は厳格な人で、我が家は祖父の考えが一番というのが暗黙の了解。子どもの頃は、祖父の考えに文句があっても口に出すことすらできない雰囲気でした」

封建的な家長制度が残る土地柄、息苦しかった日々への反抗心が残っていたせいなのか、「祖父が危篤状態だ」と連絡が来たときも、齋藤さんが会津の実家へ戻ることはなかった。

「なぜ帰らなかったのか。正直、今でもわからない。 故郷や実家に対し、気持ちの壁があったのかもしれません。しかし、臨終間際の意識が混濁する中で祖父が最後に残した言葉は、『仁史は元気にしてんのか…』だった。僕の本名です。それを後から聞き、僕のことを最後まで気に掛けていたということを知ったとき、涙が止まりませんでした」

そんな祖父との最後の思い出が、東日本大震災によって在り方が変わってしまった福島の様子とともに、斎藤さんの頭から離れることはなかった。

会津と自分を見つめ直す転機

2011 年夏。東京・新宿の事務所をたたんだ齋藤さんは、故郷である会津へ向かう。

「故郷、会津、アイデンティティー、生と死、欲望、安定。 すべてのワードを頭の中でぐちゃぐちゃに交錯させながら故郷の会津に到着したとき、『今ならば(すべてと)向き合える』と覚悟が決まりました。会津戊辰、幕末の惨劇から現代へと続く、そんな時の狭間で育った僕が感じてきたもの、見てきたものと、ストレートに向かい合ってみたいと思ったのです」

そこから齋藤さんは、会津の風景、会津の友人など、故郷・会津を撮り続けた。

「人は、生まれ育った土地が持つ因習や念も負うことになるのだろうか。 土地や一族に脈々と続くもの、そして、自分とは一体何なのか…。 何を撮るかを決めず故郷・会津と向き合い、自分に問い続けながら、ただひたすらに感じたことを撮り続けました」

この時期の作品を2018年11月、銀座キャノンギャラリーでの写真展「葉脈」で公開。同年12月に名古屋、2019年2月には大阪でも巡回展が開かれ、各地で反響を呼んだ。

そしてコロナ禍のつづく2022年春、齋藤さんは所属する日本写真家協会(JPS)有志とのグループ展を東京・新宿で開催。厳しい世の中であっても下を向いてばかりではいけない、なんとか前進し続けなくてはいけないという想いを、写真作品を通して伝えたいと語る。

「お前は何者だ?」。その問いに答えるために、齋藤さんは東京で写真を撮り続ける。故郷・会津との対話は、今も続いている。
 

Information
写真展「Photo Unit J12 Vol.4」 ※会期終了

2022/03/10 ~ 2022/03/16(日曜休館)
会場:アイデムフォトギャラリーシリウス
東京都新宿区新宿1-4-10 アイデム本社ビル2F
時:10時〜18時(最終16日は15時まで)
 


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