こんにちは。嶋原の葵どす。
クラウドファンディング、最後の最後までたんとの方に応援していただき、おおきに、ありがとうございました。苦境を乗り越えることができ、少しずつ動きだしております。
禿(かむろ)たちも一生懸命にお家でお稽古してくれていて、夏には「ゆかた会」をしました。
禿というのは太夫になるための修行の第一歩。ただ、この昔ながらの手順を踏んで太夫になった例は随分と長く途絶えておりました。
うちで50年振りのことやったんどす。
葵太夫の禿時代、母である司太夫や先輩禿と
母が司太夫というのはありますけど、父は祇園で遊ばはる人やったので、一人っ子のうちにとって舞妓ちゃんがお姉ちゃんという環境の整い具合から、2歳8ヶ月という異例の早さで禿に。
「うちはいつ、ちんちんてんてんできんの」と言い続けていたらしく、芸が上達すると言われている「数えの六歳六月六日」から京舞井上流を習い始めました。
嶋原では「太夫さんなるんやろ?」、祇園では「舞妓ちゃんなるんやろ?」。
そう言われながら、期待を裏切るように歳と共にやりたいことがどんどん増えてきた小学校五年生、「舞妓遊び、飽きた」と問題発言。うちは「声優」という夢をもち、中学・高校・専門学校へと進みました(笑)
振袖太夫としてデビューした12歳の頃
小学校卒業と同時に禿は卒業。そしてその半年後、嶋原商店街の企画で開催された太夫道中に振袖太夫(見習いの太夫)として出ることになりました。
嶋原のためを考え活動していた母の姿を見ていたのと、子供ながらにも嶋原の現状は理解していたので、「いつかは太夫に」という思いはもちろんありました。ただ、年齢がちょうど反抗期……「嶋原をなんとかしたい」気持ちと「うちもやりたいことあるのに!」という葛藤に、何年も、もやもや。
さまざまな葛藤を抱えていた20歳の頃
それでも何も言わず、やりたいことさせてくれた母の司太夫。自然と「自分の力でやりきりたい」と思えるようになり、自分の中で一区切りがついた2013年に「そろそろちゃんと、太夫として出えへんか」と、母の言葉。
何がきっかけというわけではなく、お互いの気持ちや環境が整ったタイミングが一緒だったという感じどすね。
長年所属させていただいていた輪違屋(わちがいや)さんにうちのお見世出しについて相談したところ独立のお話をいただき、うちとこの置屋「末廣屋」が誕生しました。
実は嶋原ではお見世出しの前例というのがおへんのどす。でも、嶋原を知ってもらえるこんな機会はない!奉納でお見世出しにしよう、と母。
そこで、京都の一宮さんである下鴨神社さんでの奉納道中、お披露目が決定しました。
こうして禿10年、振袖太夫15年、27歳の時に「葵太夫」として一本立ちしました。
お披露目として太夫道中と舞奉納が行われた「仮視の式」(c)YOKO Taguchi
振袖太夫の間も「もう出ない!」と何度も言うてもおてました。
かかった年数に後悔はしてしまへん。いろいろなことを学べたことが何よりあります。
そして今後、禿を育てていくにあたり、おそらくうちと同じようなことが起こると思います。そんな時にはその子にとって良い方法を考え、力になりたいと思うてます。
伝統文化の継承は、今の時代ほんまに難しおす。
それでも続けていこう!頑張ろう!と思えるのは、皆さんが応援してくれはるからどす。
ほんまにおおきに、ありがとうございます。
長い年数がかかっても、「応援しててよかった」と思うてもらえるように、ええ太夫を作ります。
これからもよろしゅうおたのもうします。
おおきに。
追伸
10月、11月あたりは嬉しいご報告がありますので、またTwitter等をチェックしとくれやす!
Twitter公式アカウント・嶋原 末廣屋 葵太夫 @ayaka8700119
・司太夫 @tukasa3749
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